2010年7月29日木曜日

虎洞山 龍昌寺

龍昌寺は山田町の中心部に位置します。石門の内側が十七世天山光寿大和尚が昭和27年(1952)に創立した山田第一保育所の庭になっています。大正4年(1915)に建立された現在の本堂内部には、意表をつく巨大な天狗の面が掛けられ、欄間には、あでやかな極彩色の天女が舞っています。

鈴木善幸(すずきぜんこう)
生没年:1911年〜2004年
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第43代)、自由民主党総務会会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。

虎洞山 龍昌寺
岩手県下閉伊郡山田町

2010年7月26日月曜日

紫雲山 圓光寺

圓光寺は寛文年間(1661年~73年)に生連社良往上人によって開かれました。現存の本堂、山門、鐘楼は、その後まもなく建立されたもので、本堂は江戸時代の地方寺院を代表とし、市の保存建築物に指定されているます。
本堂前に創建時に植えたとされる推定樹齢300年のカツラの大木が枝を広げています。雌木と雄木であることから「夫婦(めおと)カツラ」と呼ばれますが、春先には 紫色の花が木を覆い、紫雲山の名にふさわしい姿をみせるといいます。

米内 光政(よない みつまさ)
生没年:1880年〜1948年
日本の海軍軍人、政治家。
連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任。海軍内の条約派・親英米派として山本五十六、井上成美らと三国同盟・日米開戦に反対。その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。

紫雲山 圓光寺
岩手県盛岡市南大通

2010年7月23日金曜日

福聚山 大慈寺(盛岡市)

大慈寺の創建は寛文13年(1673)です。明治17年(1884)の火災により伽藍の大部分が焼失しましたが、盛岡市出身の原敬の菩提寺という事もあり山門など堂宇が再建されました。山門は明治38年(1905)に建てられた竜宮門と呼ばれる形式の楼門で、 下層が土壁で端部を曲線で仕上げられ、中国など大陸でよく見られる形式であり、盛岡市の保存建造物に指定され、境内を含む周囲一帯は環境保護地区となっていて寺町の雰囲気を今に伝えています。又、大正10年に東京駅で暗殺された原敬は、先祖の代に深い縁のあった大慈寺を引き立て、遺言によって大慈寺に葬られました。その墓所は山門の左手にあり、いまも訪れる人が多く花が絶えません。


原 敬(はら たかし)日本の政治家、幼名は健次郎。
生没年:1856年3月15日〜1921年11月4日
立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 〜 1921年11月4日)。正二位大勲位。

福聚山 大慈寺
岩手県盛岡市大慈寺町

見延別院 身照寺

身照寺は市民憩いのぎんどろ公園の近くにあり狭い石段を登ったところに本堂があります。宮沢賢治の葬儀は安浄寺(浄土真宗大谷派)で行われたが、後に身照寺に改葬されたといわれています。墓碑は本堂の裏手奥にあり生花が絶えることはないそうです。春は見延残山から贈られた6本の紅しだれ桜が見事な色合いをみせます。

宮沢 賢治(みやざわ けんじ)本名:宮澤 日本の詩人、童話作家。
生没年:1896年8月27日(戸籍上は8月1日)〜1933年9月21日。
代表作『銀河鉄道の夜』
   『風の又三郎』
   『注文の多い料理店』
   『雨ニモマケズ』

見延別院 身照寺
岩手県花巻市石神町

2010年7月21日水曜日

弘誓山 西船寺

大坂浪花・堺の廻船問屋・大西氏が、出羽国土崎湊の雄物河川口の穀丁に、海難犠牲者の供養のため、延宝8年(1680)、一宇の建立を発願し、宗俊庵道喜をもって開山したのが西船寺のはじまりです。その後、約60年後の天保8年(1837)、本願寺二十世広如の代に、中興七世澄啓庵正信が再興をはかり、穀丁から現在地の山道通旭町に移転しました。

東海林太郎(しょうじたろう)
生没年:1898年〜1972年
ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌う、戦前を代表する歌手。
代表曲:「赤城の子守唄」「国境の町」「むらさき小唄」など

弘誓山 西船寺
秋田県秋田市土崎中央

2010年7月14日水曜日

萬松山 天寧寺

天寧寺は、文安4年(1447)に蘆名盛信が大瞞行果禅師南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれます。勧請開山勧請開山は傑堂能勝でした。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33ヵ寺、僧堂12を数えたとされます。蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭100貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水1000名を擁する蘆名氏の菩提寺でした。


近藤勇(こんどういさみ)
生没年:1834年〜1868年
幕末の京都に名をとどろかせた新選組の局長。

萬松山 天寧寺
福島県会津若松市東山町

森城山 大林寺

大林寺は北山輪王寺の末寺です。観音堂は仙台三十三観音14番札所となっています。

土井晩翠(どいばんすい):詩人・英文学者。
生没年:1871年〜1952年
・本名:林吉(りんきち)。本来姓は「つちい」だったが、昭和7年(1932)に改称した。
東京帝国大学在学中に『帝国文学』を編集、詩を発表。『星落秋風五丈原』や、滝廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』などがある。また、校歌、寮歌なども多く残している。
英文学者としては、ホメロス、カーライル、バイロンなどの翻訳がある。

森城山 大林寺
宮城県仙台市若林区

2010年7月13日火曜日

糠塚 福聚山 大慈寺

糠塚大慈寺は天保年間の初めの頃現在の地に建てられ、本寺を松館から糠塚へ移しました。松館大慈寺は檀家の関係もあり、末寺としてそのまま残すことにしました。祖院とも考えられる松館と、糠塚の両大慈寺が同じ名前のまま独立し、正式に本寺と末寺になったのは、明治21年のことでした。
棟札に現在の山門(八戸市文化財)が完成したのは天保2年(1831)4月と書きしるされています。

大沢多門(おおさわたもん)
生没年:1834〜1906
・八戸糠塚生まれ。 えんぶりの復活、三社大祭の振興など八戸の観光産業の礎を築いた。

蛇口伴蔵(へびぐちばんぞう)
生没年:1810〜1866
・江戸時代の八戸藩士で八戸地方の水利開発に尽力した。

太田広城(おおたひろき)
生没年:1838〜1911
・階上町出身。 1871年の八戸県大参事。 五県(弘前、黒石、斗南、七戸、八戸)の合併を政府に建議、今の青森県の枠組みをつくった。

野村軍記(のむらぐんき)
生没年:1774~1834
・八戸藩士。新羅神社を改築し、敬神の道を教え、馬場を設け、騎射打毬の術を指導した。「八戸のことは良きも悪しきも軍記さま」といわれるほど八戸のために力を尽くした。

糠塚 福聚山 大慈寺
青森県八戸市長者http://e-tera.jp/oterasan/aomori/11-hachinohe/02-daijiji.html

2010年7月12日月曜日

金嶺山 龍源寺

龍源寺は矢島の中心部西側山手にあり、矢島総合支所前を通りさらに進むと、開創400年になろうとする歴史を秘めた山門と萱葺きの本堂あります。国登録有形文化財の本堂はこの地方の領主打越(うてつ、内越・うてゑち)氏と生駒氏の菩提所の風格を、時を越えて今に伝えています。

七條左京
生没年:〜1647年
・矢島藩家老。初代高俊が矢島に移封された際先遣隊として矢島入りし、家老の四宮数馬らと共に初期の藩政を担った。

今井文山
生没年:1810年〜1877年
・藩学日新堂及び衛生館の主宰として教育に尽力し、門下から多くの人材を輩出した。

斎藤桂蔵
生没年:1887年〜1956年
・日本で初めて「商業美術・商業デザイン」を発言し実践した。三木露風の「ふるさと」の作曲者。

土田誠一
生没年:1887年〜1945年
・東大哲学科教授。大正から昭和にかけて欧米に留学し「神道と教育」を説いた。『矢島史談』を著す。

金嶺山 龍源寺
秋田県由利本荘市矢島町http://e-tera.jp/oterasan/akita/17-yurihonjou/01-ryuugenji.html

2010年7月8日木曜日

無量山 海藏院

北リアス線の陸中野田駅から歩いて10分、野田村の中心部に愛宕神社と背中合わせに海藏院があります。名刹らしい風格をたたえる海藏院の堂宇は、いずれも重厚感があります。本堂は、大火で類焼後、明治34年に建立。軒下の扇垂木、斗組(ますぐみ)のみごとな鐘楼は平成14年に改築されました。十世による由来記に、珊光国師が持参した品々の記載があり、そのひとつに、「鶴の一音(つるのひとこえ)」の銘をもつ茶釜があり、火災後くぐるまで、沸騰すると鶴の声に似た音をたてたといいます。

小田為綱(おだためつな)の墓
生没年:1839年〜1901年
学者・教育者・政治家。通称は仙弥。南部藩校作人館寮長時代には原敬、佐藤昌介らを指導。明治13年(1880)から翌年にかけて作成されたとされる「憲法草稿評林」は、民権論的な私擬憲法として注目される。

無量山 海藏院
岩手県九戸郡野田村

2010年7月1日木曜日

月溪山 南宗寺

長者山麓にある南宗寺は、八戸藩初代南部直房が父利直を弔うために1666年(寛文六年)に類家に建てられた後、寛文十一年に現在地に移築された、歴代南部藩主の菩提所となっている寺です。
八戸城の遺構である杉戸なども保存されており、入口に構えられた山門は重要文化財にも指定されています。

羽仁もと子生家(松岡家)の墓
生没年:1873年〜1957年
日本初の女性新聞記者。

前原寅吉の墓
生没年:1872年〜1950年
天文研究家。明治43年5月19日、国立天文台などが失敗する中、日本でただ一人ハレー彗星の太陽面通過を確認。

摂待宗碩の経塚と墓
領内20箇所余りに経塚を建立。

神山由助の墓
幕末の八戸藩算術師範。

月溪山 南宗寺
青森県八戸市長者

圓祥山 大安寺

大安寺がある大畑は本州最北端の下北半島の北部中央に位置し、津軽海峡に面します。
明治初年の『新選陸奥国誌』によれば「本町は東西長三丁(約300メートル)十五間、本町の中程役所前の小路より少し西の方、南に折れて大安寺に至る小路あり」と記されています。
同誌によりば大畑は「西南の方大山量畳し、東北は北海に臨み、風嵐烈しく、五穀宜く熟せず、余産を以って生活す」とあり、この風土は古来変わることはなかったといいます。

飛騨屋(武川)一族の墓
飛騨屋の初代武川久兵衛(たけかわきゅうべえ=代々の当主は久兵衛を名乗る)は延宝2年(1674)、飛騨国(岐阜県)益田部に生れ、27歳の時に材木商となり大畑に飛騨屋を創業した。4代100年にわたり栄え、前期資本主義的経営を行い、蝦夷地開発も手掛け、後の伊能忠敬らの探検、開発の指針となり、明治の北海道開拓に続けた。

菊池九江一族の墓
菊池家は代々南部藩士で九江(政起)は明治の初期、頼山陽とも称され、書家・画家として活躍し、『桂林一枝嚶々集』を発刊。

村林鬼工一族の墓
二代目源助は号を鬼工と称し、大畑の宿老、検断も務め、菅江真澄と交友関係にあった。古学派の巨匠荻生徂徠に傾倒、天体観測も行う。

圓祥山 大安寺
青森県むつ市大畑町